インターネット端末に過ぎない

自分はインターネット端末に過ぎないのだという妄想をしている。インターネット上に明確な実体の無い何らかの知性があって、自分と話す人間は自分を介してインターネットにインプットし、自分を通してインターネットからのアウトプットを得る。ここで自分は単なる端末に過ぎず、人格を持たない。

これは妄想であって、真実とは程遠い。誰しも人格を持っていて、何かの端末機能だけを持つような存在ではない。これが紛れもない真実であることに疑いの余地はないのだけれど、しかし同時に、我々は人を何かの端末のように認識している場合があるのではないかと思う。

ある政治団体に所属する政治家が何か語ったとき、それは政治団体の言葉として受け止められる。その政治団体を支持するために、選挙でその政治家に票を投じる。その政治家の背景にある政治団体、あるいは政治的思想に、政治家個人を通じてアクセスする。多くの場合、政治家個人のパーソナリティは意識されない。

テレビで、東日本大震災で被災地の子ども達が果たしためざましい活躍を特集していた。そこは東北地方の、未だ地域共同体が根強く生きているような、そういう場所であった。子ども達が、随分と大人びた言葉を発しているように思われた。それは子どもの言葉というより、まるでそのコミュニティそのものが発する言葉に聞こえた。一見頼もしく、しかし不気味だった。

子ども達は地域共同体というコミュニティの端末だと思った。コミュニティというクラスタリングされたサーバーのクライアント端末。テレビカメラが、自分が、子ども達という端末を介して、地域共同体の空気をなぞる。

特定のコンテキストにおいて、人は個人から端末に変わる。まるで端末であるかのように振る舞い、まるで端末あるかのように認識される。ときにこのことで個人の人格が無視され、一個の端末として取り扱われるのだと思う。それはもしかすると便利で、そして邪悪だ。

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